現在の東の台地(だいち)は、ほとんど小金牧(こがねまき)といい、馬をはなしがいにしていました。小金牧は、野田(のだ)から船橋(ふなばし)までつづくとても広いものでした。

 

 牧には、しか、いのしし、うさぎ、きつねなどがいたようです。

 今の野馬よけの土手

 今ものこる「野馬(のま)よけの土手(どて)」は、このころ、牧の馬などが畑をあらさないようにめぐらされたものです。

将軍家小金原におけるお猪狩りの図

(しょうぐんけ こがねはら における おししがり の ず)

 小金牧には江戸幕府(えどばくふ)の将軍(しょうぐん)も狩り(かり)にやってきました。

 

お立場の碑(今の五香公園)

(おたちばのひ (いまのごこうこうえん))

 また、江戸川ぞいの低地は水田が多く、水路があみの目のように広がっていました。

 

 大雨がふると江戸川や坂川があるれて大こう水がおこり、人びとはたいへん苦しめられました。

  

 

 水戸かい道(どう)は江戸(えど)(東京)から水戸(みと)(茨城県(いばらきけん))をむすぶ大切な道でした。そのころ江戸川には橋がなく、わたし場があり、わたし船でわたっていました。
 

 そのため、たくさんの船が江戸川を上り下りして野田のしょうゆや佐原の米、そのほか油、塩、みそを運びました。

 

 

松戸宿のようす-「江戸名所図絵」博物館より-

 またこのころ「なまかい道」といって、秋から春には銚子から布佐(あびこ市)まで利根川をつかい布佐から松戸まで馬で運び、松戸河岸から江戸までまた船で魚を運ぶ道がありました。
 

 

 

明治のおわりごろの松戸町のようす

 今からおよそ110年前に、松戸に常磐線(じょうばんせん)が通るようになりました。

 

 鉄道(てつどう)が通るようになると、今までさかんだった江戸川の船の交通はだんだんとおとろえていきました。

江戸川のわたし船のようす

 常磐線が通って15年後には、わたし船がはいしされ、木のかつしか橋ができました。

 

 ますます江戸川の船をつかう人びとは少なくなりました。

 

 そして、町の中心も江戸川ぞいの河岸(かし)から駅前へとうつり、電灯(でんとう)もともるようになりました。

 

 

 

陸軍工兵学校(今の松戸中央公園入口)

 昭和の時代になり、松戸市がうまれたころ、日本は大きな戦争をしていました。

 

 市内には工兵学校や飛行場などもつくられました。

松飛台につくられた飛行場

 松戸市にも爆弾(ばくだん)がおとされたりして、11名の人がけがをしたりなくなったりしました。

 

 この時の爆弾がもとで、二十世紀なしの原木(げんぼく)もかれてしまいました。

 

 戦争中は、食べるものや着るものなど生活していくためのいろいろなものがふそくしました。

 

 男の人は、ほとんどが戦争に行き、この戦争で家族や友人をうしなった人がたくさんいました。

 

 

 

 

 

常盤平団地ができたころのようす

 

昭和37年頃の松戸駅前のようす

  昭和30年(1955年)松戸市から津田沼までの新京成電鉄がしかれ、松戸市では計画的に新しいまちづくりを進めていこうと考えました。

 

そして昭和35年(1960年)に、常盤平団地ができ、松戸市に住む人の数もどんどんふえていきました。

 

昭和30年代の国道6号線の工事

 昭和48年(1973年)には武蔵野線が開通するとともに、新松戸駅ができ、水田だったところが、住宅地にかわっていきました。

 

そのころ、松戸市ではくらしよいまちづくりをめざし、「すぐやる課」ができました。

 

新松戸駅ができたころのようす

 

世界にも目をむけ、昭和46年(1971)には、オーストラリアのボックスヒル市(今のホワイトホース市)と姉妹都市になました。

 

現在も交流をつづけています。

  
 

ホワイトホース市の駅から市街のようす

 

松戸まつり

 平成5年(1993年)には、市政施行50周年(松戸が市となって50年)をむかえました。

 

21世紀の森と広場や市立博物館、文化会館(森のホール21)ができました。

 

松戸市は新しい時代に向かってさらに発展をつづけています。