まだ、担任だった頃、特別支援学校との交流をしたことがありました。

初めはきちんとした対応ができるか不安でしたし、子どもたち(当時は高学年生)もうまく交流できないのではないかと心配したのですが、それは杞憂に終わりました。交流後に子どもたちに話をきくと、「楽しかった」「また行きたい」というものが多く、学級の子どもたちにとっても意味がある時間だったことを思い出しました。

その交流の際に、特別支援学校の担任の先生がおっしゃられた言葉は忘れられません。「この子たちは、神様なんです。たとえば目の前に大金があっても、この子たちはとりません。今、目の前にある真実しか見えないのです。ですから、相手の表情や空気から、自分がどのように思われているのかを敏感に察知する能力も優れているのです。」

この子たちの前では嘘はつけない。心と心で会話していくしかないのだと思いました。

一休さん(一説では良寛)のうたにこういうものがあります。

「生まれ子がしだいしだいに知恵つきて 仏に遠くなるぞ悲しき」

生まれて間もない幼い子どもの瞳の輝きは透き通っていて、じっと見つめられるとはずかしくなるぐらいです。何の邪心も持たず、生きるための最低限の本能だけで生きているからでしょうか。子どもは、仏さまと同じ澄み切った心をもって生まれてきたが、歳をとるとともに、良くも悪くも知恵がつくことが悲しいということなのです。

本校には特別支援学級があります。一人ひとりの子どもたちと関わると、まさにこの仏に近いものを感じます。これは、この子たちに授けられた特別な能力なのではないかと思うぐらいです。ハンディキャップというと、欠けたところがあるというようなとらえ方をされますが、私は逆にこの子どもたちだけに与えられている特別な力であり、こうしてこの子たちと関わることで、自分にも何かを与えてもらっているのではないかと感じます。

特別支援教育は、かつては特殊教育とされていました。でも、特殊でも特別でもない教育を学校で行っていかなければならないのだと思います。

  そういえば、特別支援学校との交流を終えたあとの何とも言えぬ清々しさ、満足感を感じたのは何だったのでしょうか。   きっと、見返りを期待しない何かをしてあげたことで得られるものと同じなのだと思います。教育の原点もきっとそういう   ところにあるのではないでしょうか。